外山の備忘録

徒然なるままに?不定期更新です。

リハビリと想い出

突然のことで恐縮なのだが、皆さんは日記を書いたことがあるだろうか。

僕はある。

はっきりと覚えているところでだと、二十数年の人生で三回は確実にその決意を持って筆をとった。

それはいずれも進学のタイミングだったと思う。

新たな環境で、身も心も新鮮な気持ちだったのだろう。

その度に僕はLOFTで手帳を買い、スキップしたい想いを必死に押さえつけながら家まで帰った、あの日々がもはや懐かしい。

結果から言うと、これは習慣として長続きしなかった。

しかし、習慣にまでは昇華せずとも、不定期にやってくる個人的に印象深い出来事については何度も認めていた。

今回ブログでわざわざ日記について触れたのは、別段自身の怠慢や怠惰を公にしたかったわけではなく、それなりの理由がある。

先日、自室の机周りの掃除をしていたときに、昔使っていた(最後まではおろか、真ん中までもページを進めたことはないが)日記帳がたまたま発見された。

自分が当時どんなことを書いていたのか気になって、徐にパラパラとページをめくっていると、中々に興味深い体験が散見された。

そうは言っても、そこまでセンチメンタルに浸るということはなく、むしろなまじ文章を書く機会が増えた今の僕から見れば、稚拙さや覚束なさが目立ち、とてもじゃないが愉快な経験ではなかったことは言うに難くない。

さて、前置きが長くなったが、僕は妄ツイを書くにあたって完全な無、本当の「妄想」で書くこともあれば、自身の経験や体験を大きく飛躍させて書くこともある。

日記に書いてあったことは(日記とは自分の気持ちを正直に書く場所だし、誰かの目に触れることを意識して書いていたわけじゃないから仕方ないのだけど)あえて掘り下げるような、つまり妄ツイのネタにするには少しパンチに欠けるものがほとんどだった。

ただ、あのとき曲がりなりにも一生懸命に書いていたものを、つまらないガラクタとして処理するにはあまりにも忍びなかったのもまた真実。

そこで、最近めっきり作品を投稿する頻度が減った僕の「リハビリ」としてリサイクルすることにした。

ブログでならば、ツイッターよりも多少僕に関心がある人が読む(はず)だろうし、僕も書いていて気が楽になる。

 

予め断っておくが、これから書いていくのは決して「妄ツイ」なんかではなくて、当時の日記の内容に触れながら、今の僕がその事象についてどう感じたか、の言うならば、自作自演の読書感想文ということになる。

 

近頃、自分の記憶力の不確かさに驚くことがままある。

昔可愛いと思っていた女の子と久しぶりに会ってみると、どうにもあの頃と同質のドキドキがなかったり、無限に続いていくと思えたほど広大に感じた小学校の校庭が、実際はずっとずっと小さかったり。

究極的には多分、当時は一生忘れないと固く誓って心の手帳に書き留めた出来事すら、風化して、破れて、どこか遠くに飛んでいってしまったこともあるんだろう(覚えていないものを回顧することはできない)。

そういう意味で僕が書いていた過去の日記は、遠い過去を今現在に引き摺り出す(良いことも悪いことも)一癖も二癖もある秘密道具のようなものだった。

改めて内容を確認すると、予想通り大したことは書いていなかった。

誰かと遊んだとか、部活に入ったとか、帰り道で誰々に会ったとか。

そうしてそのうち、今日は何も起こらなかったという無味乾燥な文章が二、三回続くとそこで連続記録は途絶える。

いつもお決まりのそのパターンで日記は終わる。

昔の自分は多分、いつも過剰な期待に溢れてたんだと思う。

毎日は楽しくて当たり前で、それでちょっと嫌なことがその合間に栞みたいに挟んであるんだろうって。

栞にはちゃんと意味があって、定期的にそうやって挟んであればいつでもそこから楽しかった記憶まで遡れるから。

でも僕も人よりは随分と遅れながらだけど、割り切りを覚えていく。

そうすると実は、意識しなきゃ気づかないものが沢山あって、気にしないと「何もない」っていう感想にしかならない。

当然だろう。

そんなことを考えながら進んでいく途中、僕は少し気になる名前に何度か出会った。

アクセントをつけるがごとく、丁度本の挿絵みたいにしてぽつぽつと出てくる名前にはなんだか不思議な魅力があった。

それまではっきり言うと忘れていたんだけど、その人は高校三年間クラスが一緒だった友達の名前だった。

こう言うと、三年も一緒にいて名前を忘れるなんて薄情なやつだ、とあらぬレッテルを貼られそうだから怖いんだけど、その人と僕はクラスで同じ時間を共有していたにも関わらず、殆ど話すことはなかった。

その子は女の子だったから自分から話しかけることも、話しかけられることもあんまりなかったし、席替えで近くの席になることもなかった。

僕だって当時はちゃんと男の子をやっていたわけで、好意を寄せていた女の子もいたけれど、その何回か名前が出てきた子(呼びにくいから山田さん(仮名)としておこうか)のことではなかった。

それにも関わらずだ、「今日は何もなかったけど、強いて言えば山田さん(仮名)と話した」とか、「山田さんの家が僕の通学路の途中にあるらしい」とか、そんなどうでもいい、全く踏み込まない内容がつらつらと書いてあるのはなんとも不思議に思えた。

そういえば、今にして思えばではあるけど、男友達同士で女の子なら誰が可愛いとかキレイとかそんな話をした経験が誰しも一度ならずあるだろう(今じゃなんとなく気を使って、表立ってそんな話は出来なくなってしまった)。

その時も僕は何故だか本命の子の名前を出さずにその山田さん(仮名)のことを推していた。

失礼かもしれないが、別に山田さん(仮名)は可愛らしい感じはあるけれど、美人と言い張るには些か無理があるような子だったから、そこまで熱を込めてプッシュする努力するよりも、別な子の名前でも出していればよっぽど省エネに周囲を納得させられたと思う。

言い訳めいた文章が続いてしまったが、要するに、僕は山田さん(仮名)の何にそこまで執着していたのか全くわからないまま高校を卒業してしまったということだ。

いや、その頃の僕には確信をもって理由を述べられたのかもしれないけれど、時間を経るにつれてそんなものは雲散霧消してしまった可能性が高い。

そして今更になって答え合わせに躍起になっているという妙。

もう一つ、これはそこまで長い話ではないのだけど、丁度高校入試が終わってそれから合格発表までの長い休み中の出来事についても書いてあった。

当時仲の良かった友人と一緒に(その友人とはなんだかんだ今でも交流がある)入学する可能性のある、とある高校へ下見に行こうと自転車に乗って行ったことが書いてあった。

それは俗に言う「滑り止め」で受験した学校で、結局二人ともそことは別の高校へ進学した。

それだって不思議な話だ。

僕らは全く同じ私立高校を二校と公立高校を一校受験して(僕の地元では私立<公立 といった構造になっている)、二人が出かけた学校は第三希望的ポジションの学校だった。

二人の間でどんな理由を共有してそこに行ったのかについては、一切触れられていなかった。

さも行くべくして行ったようで、文章からは一切の迷いは感じられなかった。

この日の日記を読んだ後、僕は友人に確認してみたのだが、友人も僕に言われて思い出したようで、どうして二人でそこに行ったのかについては謎のままである。

 

時間が経ってみれば、これらはどれも理不尽にすら感じるほど、時間的・空間的な前後関係から解き放たれて、不自然に浮き出るようにして手帳の中に認められていた。

今これを書いている途中に思い出したのだが、山田さん(仮名)と僕の間には一つだけ想い出があった。

別にちゃんとした、整理された想い出ではないのだが、高校二年生か三年生の冬場のことだったと思う。

ウインドブレーカーをシャカシャカさせながら、僕は電動自転車を何も考えずに漕いでいた。

やがて行くと大きな交差点に行き当たるのだが、僕は学校から家の方に向かって信号を待っていると、そこで反対車線の向かい側から今度は僕の家の方から学校の方に向けて信号を待っている山田さん(仮名)がいた。

すると彼女の方も僕を見つけたようで、口元に微笑みを浮かべて小さく手を振ってきた。

僕もそれに合わせてなんとなく手を振って、ジェスチャーで自分の後方を指した(たしか口パクで忘れ物?と聞いた覚えがある)。

その時彼女はなんとなく気恥ずかしそうな表情を一瞬浮かべた後(僕にはそう見えた。世界中で僕だけがそう感じ取ったのだとしても、彼女が否定したとしても僕はそう思いたかった)、肯定とも否定ともとれる曖昧な相槌を一つして、眩しい夕陽の中へと再び自転車を漕ぎ出して行った。

僕は暫くそれを眺めて、見送ったような気持ちになってから家に向けて自転車で走り出した。

 

人生には時たま先述したような、その後の人生にさして影響はないまでも、ほんの少しだけ寄り道するような出来事があるものだ。

いずれ暫くすれば元の道に出てこられるし、こんなところに繋がっていたのか、という感慨みたいなものもない出来事が。

ただこの場合かえって重要なのはその出来事自体などではなく、別な道を選ばなかったことなのだと思う。

僕は決して次の日山田さん(仮名)に前日の出来事について聞かなかったし、友人に別な場所に行くことも提案しなかった。

起こった出来事よりも、起こらなかった幾万の可能性の方がずっと大事だ。

あり得た可能性にさらばと別れを告げて、僕は今日も一つ一つ丁寧に選択しながら生きている。

これからもそうして生きていく。

それを選択と受け取るか、はたまた運命と見るかは人それぞれではあるが、むしろ向こうから選ばせることだって多分にあった。

重要な分岐点のようなものも沢山あったが、僕が選んだ以外の選択をしていたら、大なり小なり今の自分はいないのかなと思うと空恐ろしさすら感じる。

 

高校を卒業して、あの日々が永遠のように遠く感じることがある(永遠とは我々が想像するよりもずっとずっと長い)。

薄れゆく記憶や想い出が沢山ある中で、こんなどうでもいいような出来事がふっと思い起こされるとき、僕はあの日彼女の背を見送ったときの夕陽を思い出す。

僕の中でだけまだ彼女は気恥ずかしそうな笑みを浮かべて、夕陽に向かって、スカートの端をたなびかせながら自転車を漕いでいる。