ボトルメール
前書きに替えて
僕がこの文章を書いていたのは、2021年の夏前の風が穏やかに吹いている時期だった。
一つのことについて書くときに、僕は思いつきをそのまま書くのではなく、一度寝かせることにしている。
そのときに沈むものもあれば、反対に浮かび上がってくるものもあるが、いずれも僕が書き物をするにはとても重要な行程である。
必要だと思ったものが沈んでいくこともあるし、全く脈絡もなく浮かび上がってくることだってある。
そういう無意識下での選別作業を行なっているというわけだ。
そしてこの記事が出来上がった。
本来は3月11日前後に完成させることを念頭において書いていたのだが、結局のところ止めることにした。
僕はあくまで罹災者であると同時に、傍観者でもあったからだ。
そんな僕が10年という時間的な区切りを設けることは決して出来ないと思ったし、それ自体がどんなに無意味なことかに思い至ったのだ。
しかし、あの日僕が見た光景や考えたことが、今でも僕の中で浮き沈みしている。
平和な風景の中に留まり続ける、暴力の残滓のようなものが否定し難く存在している。
それは僕個人の内側に潜む暴力性なのかもしれないし、集団が抱える潜在的暴力性なのかもしれない。そして、その一部の暴力性は僕らの足元で息を潜めていることは紛れもない事実なのだ。
だから僕は書くことを選んだ。
どこかの誰かと、故郷と自明の絆を失った僕の間に柔らかな繋がりを取り戻すことにした。
これは僕の極めて個人的かつ共時的営みであると同時に、どこか通時的な意味合いが含まれていることを願うばかりだ。
2月24日、太陽がちょうど自分たちの真上に来る時間、僕は友人2人を誘って宮城県は名取市閖上に来ていた。
実際的な気温は2月の平均とそう大差なかったが、とにかく風が強い日だった。
東日本大震災から10年が経つ、ということは僕にとって文字通りの10年とも受け取れたし、昨日のことととも取れた。
それらは互いに重要な意味を持っていて、その時間感覚の隔たりは切っても切り離すことができないと思う。
僕がこの場でこういう形で文章に改めて、地震について書くかどうか、本当のところ随分と迷った。
書くことの意味、と言ってもいい。
何故なら僕が書くことによって残せるものはとても限られているし、決して少なくない人が不快に思うかもしれない。
それでも僕は書き残すことにした。
自分の中の生々しい記憶が、遠いどこかの駅に届けられた遺失物のように、誰の目にも留まらず、その形を美しく失っていくことができないから。
僕らが閖上に行こうと思ったのは、つい先日のことだった。
それまで漠然と頭の中にあった靄の正体を探っていたころ、震度5強の地震が僕の住む宮城で起こった。
日本列島は4つのプレートの上に寝そべるような形で横たわる島国であり、言わば地震の故郷・巣のような場所で僕たちは生活をしている。
地震が起こるたび、僕は地震は時間や死と近い場所にあるんだと感じる。
大きな地震はいつか来る、確実に。しかしそれは今日ではないと誰もが思う。
同様にして死も同じだ。
誰も自分が今こうしている瞬間に__コーヒーを飲んだりタバコを吸っているとき__死ぬことなんて考えもしない。
いつか死ぬだろうが、それは今日ではない別な日である。
しかし、人間は不死身ではないし、地震は起こる。
もし仮に、今日その両方が起きなかったのだとしたら神様に感謝をした方がいい__そうでなければ自分の天運に__。
例えばそれは、当たり付きのくじ引きを毎日一回ずつ引いてはゴミ箱に放り込む作業と同じことなのだから。
そして10年前、それらは同時に、実際に起きたことなのだ。
前置きが随分長くなったが、現地に着いた僕たちは、実際に自分の足で閖上を歩くことにした。
駐車場の広いスーパーに車を止め、綺麗に舗装されたアスファルトの上を、海岸部へと向かって歩いた。
街の中心部__人々の生活拠点になるように作られた、スーパーやらなにやらが密集している地域__を過ぎると、周囲から建物が少しずつ減っていく。
減っていく、つまり全く何もないわけではないのだが、その数は少ない。
そしてその数えられる程しかない建物は、どれもがここ数年で建てられたような、新しい建物だった。
それは当然のことなのだ。
当時__震災発生以前に__建っていた建造物は、津波という圧倒的な暴力の前に、なす術もなく、粉々に砕かれ、流されていったのだから。
それから更にしばらく歩くと、小高い丘のような、公園のような、あるいはその両方を備えた場所に行き着いた。
そこには慰霊碑とともに、とても小さな社があり、僕らが訪れるよりも前に来たであろう人々が供えた献花があった。
何も語らないその花々は、ひどく僕の心を締め付けた。
この場所で__そう、正しく僕が今立っているこの場所で__あのとき何が起こったのか、それはもう想像することしかできないのだ。
本当に心の芯が冷えた。
僕がここに立つことは、あるいは歩くことは、なんの誇張や壮語なんかじゃなく、誰かの死の上にいたのだ。
都会と比べて決して煌びやかではなくとも、安穏として満ち足りた、いたって‘’普通‘’の生活が営まれていたはずなのに__それは僕らが望まなくとも手に入るべきものだ__、地球の振りかざした、たった一振りの拳が__それに伴い発生する不可避的な作用により__音を立てて崩れた。
その現実が、否応なしに僕らの眼前に横たわっている。
それは本当にショックなことだった。
僕は学生時代に何度となく被災地派遣のボランティアを経験していて、家屋が倒壊した地域の光景や、人々が馴染ませる何気ない表情を、繰り返し繰り返し見てきた。
それから何年が経ったのだろうか。
僕の中には、どこか無責任な希望・期待があったのかもしれない。
時間によってのみ解決されることもきっとあるはずだし、それは物理的実体を伴うものであれば尚更に。
しかし、この10年という歳月は、僕の実感としての速度と全く違っていた。
僕がボランティアに行っていたのは、‘’ほんの‘’数年前の話だった。
悼ましい限りの死は、その数えきれぬ死は__数えるべきなんかじゃない。それは‘’数字‘’じゃないから__、まだ目に見えるところにあるのだ。
僕らはそこで合掌し、その丘を降りることにした__日和山というところだ__。
すると振り返った場所には、一本の決して太くはない松の木が生えていた。
閖上にはあんどん松と呼ばれる、松が集まった区画が一部残っている。
それは長い月日、風雨に耐え、震災を耐え__昨年発生した強風で、市登録文化財の貴重な松が数本倒木してしまったと聞いた。本当に残念でならない__、今もなおその身に命を宿している。
この松はあの苦境を乗り越えたのだろうか。
それとも、それ以降に植えられたものなのだろうか。
とにかく、僕はこの木がある種の希望を担ってくれれたならと思う。
現在、日和山を含めた周囲には、鎮魂のモニュメントや慰霊碑等がある。
この地には様々な人々の想いが積み重なっているのだ。
それは一過性の気紛れなんかじゃなくて、生きた想いだと信じている。
何も僕らが見たものは、負の面だけではない。
閖上には新たな宅地もできていて、自らの意思でこの地で暮らすことを決めた人々が沢山いた。
スーパーや食事処も散見され__近々新しい商業施設ができるというニュースも見た__、この場所は少しずつ変化していることを実感した。
それは何も閖上に限った話ではなく、震災で大きな被害を受けた地域ほとんど全てに言えることだろう。
大きな悲しみの側には、小さな希望が必ず生まれるのかもしれない。
倒れてしまった巨木からも、再び新芽が吹き出すように。
僕は震災によって引き起こされた、様々な事象について、何度となく想いを巡らせてきた。
それらは結果論で語るべきではない。しかし結果からしか学べないことも多くある。
それらについて考えていると、本当の公正さみたいなものからどんどんと離れていくような気がした。
そこに僕は、僕自身の自己矛盾を見つけた。
かつて、僕は何度となく「風化させない」ということを書いたし、必要とあれば喋った。
ある意味で熱心に活動をしていた僕でさえ、海が運ぶ漣のような風化の波へと、身体を預けているような気がしてくる。
僕はふと思うのだ。
自分たちは結局、遠巻きな痛みには鋭くて、身近な傷には鈍感になりたがっていると。
望むべくして、というのか。
どこかの、誰かのことだから、僕らは「区切り」や「節目」などという、ディジタルな目安で物事を判断しようとするし、それができてしまう。
しかし、当事者の人々にとってみれば、それが10年でも20年でも、あるいはその日のことであっても、そこにあるのはただのグラデーションなのだ。
ほんの緩やかなグラデーション。
昨日と今日は何かが違うかもしれないが、10年後でもその位置関係はそう変わらない。
目に見える形で何かを残し、作り替え、目の前の出来事を不恰好に繋いでいる実感が、そのグラデーションをハッキリとした色彩にしていく上で、もしかすると必要なことなのかもしれない。
あの日から永遠に時間が止まったままの人だって、きっといる。
単一色的な日常を過ごして、明日が来ることなき人々に祈り、残されてしまった痛みに打ちひしがれる。
眠れぬ夜もあるだろう。
進みたくても進めない、進みたくもない、しかし戻ることは決して出来ない。
その苦しみを僕らは、どう受け止めるべきなのだろうか。
受け止めるべきじゃないのだろう。
その痛みをなるべく些細に__そう、あくまでも物理的に感じて__、少しずつ繋いでいくしかない。
日本が明日、国同士を巻き込んだ軍事的な争いに発展する可能性よりも__おそらく__、明日、地震によって同質的な苦しみを抱える可能性の方がずっとずっと大きい。
それならば、僕らはその痛みや哀しみを抱える人間を、ほんの一人でも減らさなければならないのだ。
それは被災者云々を抜きにした、あの日あの瞬間を1秒でも跨いだ僕らの、小さくない責任の問題なのだ。
そして僕ら3人は、車がある駐車場へと引き返し、宛先の消えかかった手紙みたいな会話を、ぽつりぽつりと重ねた。
遺された現在と、進み続ける過去が同居しているこの街で、僕らが語るべきことは、いや‘’あえて‘’僕らが語らなければならないことは、ほとんど無かったような気がする。
この日僕らは、時の奔流に投げ出され、時空間の隙間に迷い込んだ気分になった。
そうしてやがて、駅の遺失物届けに入り込むようにして自らの地点を定め、また再びそこから帰ってきた。
僕らには帰るべき家があったからだ。
誰ともなく、帰ろう、帰ろう、と呟き__いや多分実際には誰もそんなことを口にはしなかった__、乾いた音を立ててエンジンが動き出した。
そうしてやがて、さっきまで自分たちが居た地点が薄ら遠くに見えた頃、僕は思わず呟いた。
「閖上ってこんなに近かったっけか」
子供の頃、家族で出掛けた閖上のサイクルセンターは、本当に遠いところに感じた。
長い時間をかけて、時折眠りかけながら、父親の運転する四駆のディーゼル車で出掛けた。
しかし実際その場所は、僕らが車で30分も飛ばせば着いてしまうほど近いところにあった。
僕は背筋に冷たいものが走るのがわかった。
遠くないのだ。
遠くなんかなかったのだ。
ともすれば、あの日と同じことは僕のすぐ目の前で起きていた。
僕はこの日、初めて本当の意味で肉体的に震災と結びついたのだった。
10年という歳月は、1人の右も左も不確かな子供が、ある程度の良識を求められる大人へと成長してしまうほどの時間だ__僕がそうだ。しかし僕は果たして一定量の良識を備えられただろうか。わからない__。
自然淘汰が、時間によって引き起こされる事象であるならば、現時点で僕は運良くその手から逃れられた計算になる。
そして動性の時間を生きる僕らは、この日ところどころの時間が静止した空間に訪れた。
僕らは止まったままの、その時間が再び少しずつでも動き出すことを、心の底から願った。
寄る辺なき祈りにも似た、その想いが、どこかの遠い場所であったとしても__それは時間的な意味合いで、そして物理的な意味合いでも__いつか結実することを願っている。
この記事が少なくない人の怒りを買うこともあるだろうが、たった1人の人が穏やかな気持ちになってくれればそれで僕はいいと思っている。
僕のような、小さなコミュニティの、小さな物書きが故郷のためにできることは、結局は文字を繋げていくことだけなのだ。
このボトルメールが、時間という海に流されて、遠い場所の誰かの手に渡ることを祈ってこの記事を書き終えようと思う。