外山の備忘録

徒然なるままに?不定期更新です。

読書について僕が思うこと

僕と何か、わかりやすく言えば「僕:世界」を語るのに際して、多分読書は何かしらの構成要素として機敏に働いてくれると思います。

例えば、僕がこの界隈等でこうした活動を続けていると(ありがたいことにもう4年くらい経ちますかね)、少なくない人々が僕に興味を持ってくれました。

それも外面的なものから内面的なもの、果てはパーツにまで。

その度に僕は僕をなるべく正直に、些細に、誤解なく伝える努力をしてきたつもりです。

しかしこれは僕が幼い頃から実感として確かに掴んでいることを言わせていただければ、「言葉とは自分の口から出た瞬間に嘘になる」ということを、この場の共通認識として持っておいてほしいのです。

全てはどこか詳細を欠いているだろうし、歪になることもあるし、膨らむことだって珍しくない。

要するに物理的な意味で真っ直ぐな言葉は存在しないということです(そもそも空気は振動しますしね、これは冗談ですが)。

ただ僕らは幸にして、文章を書くことで他人に何かを伝えることができます。

文字は口に出すよりかはその振動のブレみたいなものが少ない(と思うのですが。あくまで感覚として)ですから、ある程度額面的に、乱暴な言い方をすれば、そっくりそのまま鵜呑みにしてくれるだろうという希望を持って僕らは書いている部分があります。

ですから、僕がこれから書くことも、ある程度鵜呑みにして聞いてほしいのです。

誓って嘘偽りのない本音として。

 

何故だか僕がどんな本を、どうやって読んで、何を吸収しようとしてるかが気になる奇特な方がいるようです。

一応は書いておきますが、参考になるかはわかりません(随分回りくどい手法ですから)。

大前提として僕は普段割と場所を選ばずに本が読める人なんです。

でもそれは僕が並以上の集中力を持っているからという話ではなくて、単純に読書の方法の話なんですよ。

僕は大抵の場合、同じ本を3〜4回続けて(もしくはチェイサーとして別な本を適度に挟みながら)読みます。

1回目もしくは2回目は全体を把握するためにザーッと流し読みして、次に全体の流れを押さえながらしっかり読み込んで、それ以降は付箋をぺたぺた貼ってみたり、マーカーを引いてみたり、もぞもぞしながら読みます(僕が読むには値しないと判断すれば、流し読みの途中で放棄することもありますが、まぁ稀です)。

ついでに言えば、同じ著者の本を何冊か読むことがもはや癖です。

するとその著者の傾向とかがぼんやり掴めてきますから。

お化け屋敷とかお笑いに精通した人にならわかっていただける感情として、流れや傾向がわかるとその人の「お約束」がわかるということですね。

僕が場所を選ばないというのはそういうことです。

つまり流し読みをする段階の本であれば、始めから腰を据えて読む気がさらさらないから、周りがうるさかろうが静かだろうが関係がないのです。

これが僕の読書の仕方です。

概ね効率性を排した、警察キャリアに対する現場上がりの刑事みたいな読み方ですね、こうして書いてみると。

まあとにかくそうやって僕は本を読んできて、これからもそうしているという確信があります。

次に僕は本というものに、殆ど期待をしていないということは特徴として挙げてもいいと思います。

僕は以前から口酸っぱく周りには話しているのですが、本なんて読まないで生きられるならそっちの方がよっぽど効率がいいです。

本なんか読まなくていいんです。極端なことを言えば。

だって動画の方が情報量が多いし、座って本を読むよりも外に目を向けた方が身になることは転がってます。

百聞は一見にしかず、とは昔の人は良い言葉を遺しますね。

ですから、僕は「ためになる本を教えてくれ」とか、「本を読まなきゃいけないってわかってるんだけど」という人が大嫌いです。

そんなことを言われたあかつきには吐き気を催してしまうし、多分過去に一度や二度は本当に吐いてます。

根本的にその人たちは理解を履き違えているのです。

ためになるならないというのはそもそも、個人の領域拡張に寄与するかしないかですから、個人差があります。

個人差があるものを、単に均して共有することに意味はありませんし、更に言えばこれは僕の発言と矛盾して聞こえるかもしれませんが、ためにならない読書は無いです。

その本が面白ければ広義の「ためになる経験」であるし、面白くなければそれはそれで二度と読む必要がないという意味で勉強になりますから。

本を読まなきゃいけないことなんて、いや本を「読まなければならない」ことなんて、僕が今振り返ってみてもそんなにはないです。

ものを書く、描写するという意味においてはそれらはある程度の枠組みを担保してくれたこともありますが、基本的日常生活を静かに営む上で、読書体験が何かしら即物的な意味合いで得をしたことはないんじゃないかという気すらしてきます。

そういうことで、損得勘定で読書を「しなければならない」ことかどうかで考えれば、僕はハッキリとノーを突きつけられるでしょう。

その程度には本と触れ合ってきました。

反対に、観念的な意味合いにおいては今までの経験は代替不可能であったかもしれません。

僕は映像的に物事を理解することが苦手なのです。

所謂「空気を読む」ことが苦手と言い換えてもいいかもしれません。

先述のように、ときには合理性の対極まで歩いていくこともあります。

「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」という有名な言葉がありますが、僕は残念ながら?後者に位置付けられると言えます。

まあこれに関しては、僕はある程度僕自身の経験から得る跳躍力を信じている部分が多分にありますから(経験してみなければわからないことも事実としてありますしね)、一義的な愚者とは言えない、というのが個人的見解です。

話が逸れましたが、僕は本に対して言わば「鼻炎薬」的な効能を期待していません。

特効薬というよりは漢方薬程度に「うん、なんか身体に良さそうな味がするぞ」ぐらいのもので十分なんです。

本(特に小説に代表される物語)を僕は「パラフレーズの連続性」であると思っています。

何か伝えたいことが一つあるとして、物語はそれを何百ページ、場合によっては何千ページ何万ページもかけて言い換え作業を続けていきます(その途中に亡くなってしまう人がいるくらいに)。

でもそれはもしかすると、たった一行で表現できることかもしれないし、30秒くらいの動画にまとめられる程度のことであるかもしれないし、とにかく程度は違えど、言い換え「なければ」もっと簡単に、効率的に、誰かに伝えられるものです。

小説がしょうもないものであると主張する人がいます。

おそらくそういう人は時代に沿った表現様式ではないという意味合いで言っているのでしょう(事実、時間の持つ重要性は加速度的に拡大しています)。

僕はそういう意見を聞くと「まぁそうだよね、みんなそんなに時間ないよね」くらいに思います。

でも考えてみれば情報は無尽蔵に増加していますし、その実態はもはや収集不可能なほどに攪拌されています。

それらの巨大で膨大な「世界」という名のデーターを、個人の物理的な意味での身体に取り込むことは、おそらくできないでしょう。

すると結局人間は自分の手の届く範囲のものを、咀嚼可能な速度で吸収することしかできないのですから、僕らのような愚者を一概に「愚者=バカ」と論じられる筋合いはありません。

あるとき僕という愚者は、愚者の皮を被った賢者であり、賢者は賢者のフリをした愚者に過ぎません。

だってそうでしょう。

不可能なことをやったみたいな気になって他人を見下すことの、その愚かしさはパラフレーズ不可能です。

とにかくそれらの価値観の相違は、右と左、上と下、内と外くらいに混ざり合うことがありません。

そもそも本を読む人という人は、過去に本を「読まざるを得ない」経験をしたことがある人が多いと思います。

読まざるを得ない。つまり、半ば強制的に本を開いたということです。

僕の場合は、それしか無かったんです。

昔の僕は随分と内向的で、他人と接することが苦痛で、本の中の世界に逃げることが殆ど唯一の安息地だったんです。

その習慣が、大人になった今でも、連綿と続いているに過ぎません。

ですから、本を読む必要がない(これは僕の言うところの読まなくてもやっていけるならそれで良いという考えではなく、本の持つ効力の全てを貶めるという意味で)と大した理由もなく包括的に言うだけの人と、僕らとでは境遇を含めた、包括的な出発点の時点で違うわけです。

それでも僕はこれからも何かしら読むことを止めないでしょうし、止められないと思います。

僕は効率を嫌悪します。

生産性とか、合理化とか、能率。

そういう、無駄じゃないものがいつだって僕の進路を阻んできました。

正解よりも間違いに育てられてきました。

近道なんて見かけたことすらありません。

僕が読書をする理由なんてそんなものです。

個人的に(結果論かもしれませんが)不可分な物事とは、僕以外の世界から見たときに無視されがちなものが多く存在します。

しかしそれらは世界から見たらゴミであっても、僕にとっては非常に枢要な多義的な意味を持つ宝物だったのです。

こうして僕と世界は無意識のうちに沿革して、今のようにな成り立ちが出来上がりました。

これらは嘘偽りのない本音として、僕の心の柔らかい場所の大部分を占めています。

僕以外の(これを今読んでいる)誰かにも、その人だけの背骨があって、身体を組成しているはずです。

自分だけの、他者と自分との関わり方について考えることはひどく難しいものです。

しかし、それらは否応なしに関わり合い、デタッチメントからコミットメントへと緩やかな談合をしていくことは、逃れられない宿命と言えるかもしれません。