気がつけば
気がつけば師走。
僕の暮らす街では初雪が観測されて、凍れる寒さが続いている。
去年、一昨年が殆ど積雪という感の無い程度しか雪が降らなかったから、スキー場やらそういう雪が生命線の場所は大変だったと聞いていた。
そして今年、いざ雪が降ったはいいものの、このご時世ではこれまた難儀なこともあるだろうと思われる。
今年はなんだか春と秋が短かったような気がしないでもない。
暑すぎると気怠るくなるし、寒すぎるのは暑いときよりも苛々が募るからどうにも好かない。
春と秋のあの季節、気温が持つ高揚感と哀愁が堪らなく好きだから少し寂しかった。
僕自身の話をすると、僕はインドアとアウトドアの丁度中間、外と中の区別をはっきりつけ過ぎないという点では旧日本家屋構造的な人間と言えるだろう。
案外僕と近い人も多いんじゃないだろうか。
いつでも外と中を行き来するけれど、庭から外には出ないし、襖一枚で区切られただけの部屋に閉じこもるようなことも少ない。
中途半端、どっちつかずと言えば言い方は悪いけれど、よく言えば柔軟な人付き合いができるタイプとも言える。
話を本来の道筋に戻すと、僕は活発過ぎないと言いたかった。
それが意味するところでは、僕は先んじて海に行くこともないし、山登りはしないし、スキーは滑ることが一応できるけどスノボはできない。
でもプールは好き、沢で水遊びをするのは好き、子供の頃にしたソリが結局一番楽しかった、という記憶は覆せない。
それらは結局僕が小市民的な人間だということを暗に肯定されているようで複雑だけど、そういうことなんだろうと思う。
少なくともそれらを強く否定する材料は無い。
そうしたことを考えていると、なんだか自分がやけに小さくまとまってきつつあるようで、かつて(小学生くらい)の僕が思い描いた僕とは随分と方向性の逸れたところに来てしまったように感じる。
先に述べたように、僕は夏と冬がそれほど好きでは無い。
それぞれの季節の好きな部分を、それぞれの季節の嫌いな部分が大きく上回っていることが原因なのだと思う。
まあ嫌いとは言わないけど。
ところが最近(それもここ2、3日の間)気がついたのは、僕は冬という季節を総合するとどうしても好きにはなれないけど(僕が女の子に振られるのはいつも決まったように冬だ)、やっぱり嫌いと断定できないだけの理由はあるということだ。
特に強く思ったのは、雪が降りつもる深夜の空気は好きだと言っていい。
そう多く雪が積もらない地域に住んでいる人には伝わらないかもしれないが、沢山降った雪は音を吸収する。
街は普段よりも静かで、その中で音は、空気は、少しだけモコモコする。
このモコモコした感じを言葉で上手く表現するのは難しい。
とにかくその物理的にも感覚的にもモコモコした街というのは、本当に素晴らしいものだ。
雪を踏みしめるときの、モキュっという音も好きだ。
世界で一番可愛い音かもしれない。
そしてこれは本当に何を調べたわけでもないから、より感覚的な話になるが、雪が積もった風のない日は僅かに暖かく思える。
その日に深夜歩いていると、なんだか自分は違う世界に迷い込んだような錯覚すら覚えるのだ。
夏になると冬が恋しくなったかと思えば、冬になると夏の照りつける太陽が待ち遠しい。
そうして二十数年同じようにして一番遠い季節に恋焦がれながら生きているのにも、もう疲れた。
もしかすると僕はどの季節も好きになれないまま死んでいくのかもしれないと思うことさえある。
それは四季のメリハリがぴっちりとした日本で生き続ける上で、最も恐ろしいことの一つだ。
そう思っていた。
ただそれは大仰に言えば、僕は永遠に片想いし続ける権利を与えられたとも受け取ることができる。
どの季節も好きで、どの季節も嫌いで、そのジレンマで右往左往する自分という存在が、そうしたときにやけに愛おしくなるのは僕だけなのだろうか。
毎度のように長々と自分語りをしてきたが、ブログとは本来そういうものだから諦めてこれからも読んで欲しい。
僕には一年の総括という概念は無いし、新年の抱負なんかクソ喰らえと思っているから、来年もこうして腐敗堕落した一年を過ごしていくのだろうと勝手に計画している。
また暫く付き合っていってもらえたなら嬉しい。