デカい独り言、自意識過剰
昔から親には「減らず口」とか「屁理屈ばっかり」と怒られることが多かった。
それは周りの人達が社会に出ているような年頃になっても変わらない。
つまり今でも何も進歩してなどいない。
不満というのも違うから、単純に疑問が多いのかもしれない。
何故パーカーだけで深夜出掛けることを咎められるのか、何故帽子をかぶっていると他人はこれ見よがしに笑ってくるのか、ヘアセットを欠かさない人間の方が人として上に見られるのか。
厨二病である。
思い返せば僕の十代は特殊だったかもしれない。
そういう社会通念的なもので他人を押し図らず、より面白いことにストイックな連中が周りには溢れていた。
芸人さんのように仕事と割り切るわけではなかったが、そんなラフな感じが心地よかったんだろう。
歳を重ねれば、僕自身の環境も状況も変わるわけで、そんな変化を感じつつも楽しめる人間が世の中では強者として崇め奉られるんだろうな。
僕にはできないけど。
僕はこれを東京に向かう新幹線の中で、暇つぶしも兼ねて書いている。
最初の一行を書き始めた文言が、自分の中ではだいぶインパクトのあるものだったからか、今書きながらも色んなものに疑問が湧いて仕方がない。
僕が周囲に対して口に出さないまでも、思考という意味で攻撃的になったのはいつからだったか。
少なくとも、義務教育を終了するまではここまでややこしくなかった。
そうして記憶の糸を辿っていくと、高校生の頃でビビっと手応えがあった。
あれは高校二年生の頃、僕は学校にも行かずに友達と集まっては麻雀をしたり、そのことが祟って親に怒られては深夜に家を出て公園で野宿するようなやつだった。
最低だ。
学生には学生の本分があって、みんなそれに疑問を抱くことなく(抱いたとしてもそれを何の気なしに飲み込んで)生きている。
ただ当時の僕には、それがどうにも我慢ならなかった。
大人は納得のいく答えなんて出してくれない、Siriの方が会話ができる、などと本気で考えていたのだから目も当てられない。
今にして思えば、周囲と比べて抜きん出た才能もなく、膨大に時間だけが与えられた高校生が辿り着く極地だったのかもしれない。
今ならハッキリとあの頃の自分に言ってやれる。
それって時間の無駄だよ、と。
他の誰かに言われたならまだしも、自分自身に言われてしまっては、当時つんつんとしていた僕でも流石に閉口するだろうな。
途方もなく長いモラトリアムを経て、僕は一体どれほど成長したのだろう。
自分がニーチェにでもなったかのような気でいた高校時代から何かが大きく変わったとは思えない。
この間幼馴染と呼べる友人と話していても、小学生の頃の自分と今の自分の明確な違いを考えて、結局結論を出すことなんてできないまま夜が更けていった。
今改めてじっくりと考える時間が与えられて、思考を巡らせてみる。
そろそろ大宮駅も近づいてきたであろうところまできて、ハッと気がつく。
慣れただけだ。
バイト先に夕方出勤したにも関わらずおはようございますと言うことにも、理不尽や不条理に心を痛める回数が減ったことにも、寝癖直しにヘアワックスで髪を固めることにも、ただ慣れたのだ。
社会の歯車として順応したのではなく、背景に擬態するカメレオンのように、なにかを装うことで身を守っているのだ。
これから先の人生、僕の日常から疑問は消えていく。
いや、たしかに疑問はそこに変わらず存在するはずなのに、僕は見て見ぬ振りをするようになる。
全てを見逃すとまでは言わずとも、きっと気に留める回数は減る。
意味もわからず作業をこなすことにも慣れる。
怒られることにも慣れる。
人間が進化の過程で手に入れたものは多い。
木の上での生活を捨てて、莫大なリスクと膨大なリターンが存在するの地上で生活を始めたこと。
知識、経験、技術。
偉大な発明も数知れない。
ただ僕が思うに一番偉大で恐ろしい発明は、慣れること・習慣化することではないだろうか。
慣れることは楽だ。
ただそれは痛覚が鈍感になることと引き換えに、交感神経の働きも鈍くなる。
僕がここまで書き進めてきたことはあくまでも僕の持論であって、一般論からは大きく逸れる。
僕が気にしすぎているだけのことだ。
そんなら過剰な自意識を抱え込んで、僕はもうすぐ東京に着く。