サヨナラの意味なんて見つからない
外山のブログを閲覧いただきありがとうございます。
何を書こうと思っていたタイミングでの若月佑美さんの卒業。
悲しかったですね。
いや違うか。悲しかったんじゃなくて寂しかったんです。
乃木坂46が発足してから7年半ですか?7年半もグループにいれば、それはもういて当たり前の人になるじゃないですか。
そんな人も卒業していくんですねえ。
今年の頭に生駒里奈さんが卒業を発表してからというもの、乃木坂ファンにとっては怒涛の一年になったかと思います。
それと同時に、妄ツイ師として凡そ5ヶ月弱活動してきた僕にとっても、出会いと別れの多い年となりました。
まあ一年の終わりにはまだ遠いわけですが。
元々僕が妄ツイを書こうと思ったきっかけは、誰かに憧れたり、誰かに僕の作品を読んでほしいという、立派な動機ではありませんでした。
ただ乃木坂ファンの友達が欲しかったんです。
自分語りになって申し訳ないですが、僕の過ごした高校は、アイドルのファンであることを容易に打ち明けられる環境ではありませんでした。
勉強に必死だったり、部活に精を出したり、それはどこの高校でもそうかもしれませんが、中途半端に賢い奴が集まると、その色は顕著になりましたね。
それは大学生になった今もあまり変わりません。
僕自身もどこか恥ずかしいのかもしれません。
僕は乃木坂46が好きなんだ、と声を大にして言うことが憚られると言いますか。
そんなとき、10年来の友人(彼もふとしたタイミングで乃木坂ファンだと打ち明けてくれました)が、この界隈の存在を教えてくれました。
数少ない趣味の一つが読書でしたから、僕もその真似事なら出来るかもしれない。
そうしたら臆面もなく乃木坂が好きだと言える友人が増えるかも……なんてところから始まったんです。
いやぁお懐かしや。
でも最近思うんです。
友達を増やしたくて始めたこの活動は、かえって失うものを増やしただけなのではないか。
今までは乃木坂の動向だけを追っていればよかったものを、仲の良かった妄ツイ師の引退や休止にまで目を向けなければならない。
そんな想いがここ何日か、いや随分と前から僕の心に影を落としていました。
さて、誰かの卒業発表の度によく引き合いに出される曲が乃木坂46には存在しますね。
そう、「サヨナラの意味」です。
僕は齋藤飛鳥さんを現在のところ推していますが、以前は橋本奈々未さん推しでした。
随分ミーハーなチョイスだなんて言わないでください。
好きだったものは仕方がありません。
この曲は発表当初からずっと好きで、未だに夜中なんかに聴いちゃうと涙が出ます。
昔は曲を聴いて複雑な気持ちになる度に、「いやぁ僕もまだまだサヨナラには強くなれそうもないや」なんて思っていましたが、最近はそれも変わりつつあります。
と言いますのも、この曲で強調されている「サヨナラに強くなれ」の部分が、変に強がっているように聴こえてきたんです。
曲のサビ、つまり一番伝えたいメッセージにこれを据えたからには、秋元康氏なりの理由があるのでしょう。
しかし、こう伝えるのが難しいのですが、自分の手を離れた作品はもう100%自分の思うようには伝わらないし、反対に自分では気がつかない自分の気持ちが込められて、それを人はキャッチしてしまうんです。
それは妄ツイを書き始めてから知ったことでした。
いくら綺麗な言葉で着飾っても、あの曲には秋元康氏のどこか歪んだ気持ちが込められているような気がしてなりません。
人はサヨナラには強くなれないと知っていながらも、強くなったように見せなければならない。
そんな想いが透けて見えるのです。
これは批判文ではありません。
当然なんですよそんなことは。でも自分に言い聞かせないといけないからああいった歌詞になったんだと思います。
それを踏まえてもう一度曲を聴いてみると、以前は深く感動していた部分とは違う箇所に、とても納得してしまったんです。
サヨナラは通過点
これからだって何度もある
後ろ手でピースしながら
歩き出せるだろう
君らしく…
別れは何度もあるんだと頭では理解していながらも、一番最後の歌詞に使われている三点リーダがなんとも言えない味わいを醸し出していると思うんです。
まあそんな歌詞考察はここでは割愛するとして、僕の今の別れに対する気持ちはまさしくここに集約されていると言っても過言ではないでしょう。
自分が悲しかろうと寂しかろうと、別の道を歩いて行く人のことを後ろから見送ることしかできないんです。
そしてその人が振り返った瞬間だけでも、僕らは精一杯取り繕った笑顔でいられたらそれでいい。
そう思うんです。
僕は人生で何度か入退院を繰り返して、そこで出会った人とその場の別れだったり、一生の別れを経験しました。
前者はまだいいんです。
後者が問題なんです。
後で再会して、あのとき本当は別れたくなかったんだよとは言えないわけですから。
人生がどんな形で終わるかなんて誰にもわかりません。
だからせめて最後くらいはお互い笑顔で終わるべきなんです。
家を出るとき、友達に手を振るとき、僕が今まで出会った人と別れるときは、その内情は二の次三の次で笑顔で別れることにしています。
話がだいぶ脱線しましたので元に戻しますと、要はうじうじといつまでも後悔したり悲しんでも仕方がないんです。
本名も顔も知らない遠く離れた地で暮らす僕の友人の言葉を借りるなら、「悲しいけどそれはその日限りの感情で、次の日からは応援しないと」
一字一句正確ではないですが、おおよそこんな感じだったかと思います。
歳を重ねるにつれて、出会いよりも別れの方が多くなってきたなと思う今日この頃。
僕は未だに「サヨナラ」の意味を言葉にすることができません。
意味を見つけたいと思うし、その反面見つけてはならないような気もします。
何がその気持ちを起こすのか。
おそらくは時間なんですよね。
僕には推しメンを応援していた時間が存在したし、今はもうここにはいない人々と過ごした時間がたしかに存在したんです。
それを乗り越える必要なんてどこにもないんでしょう。
どんなにみっともなくても、その想い出を乗り越えることなどせずに、僕は延々と引きずったままいたいと思うのです。