「あの頃、君を追いかけた」を観賞した感想
最初に断っておくと、この感想は是非映画を観てから読んで欲しいし(一部内容に踏み入る箇所がある)、僕が今から書いていく感想は感想ではないのかもしれない。
パンフレットに載っている、映画ライターが書いた、なんだかよくわからないけど良さげなことが書いてあるページ。
そんなものだ。
過ぎ去った過去に想いを馳せることがときたまある。
それは時に晩酌のおつまみにあてがったり、子守唄代わりに頭の中で反芻させたり、不意に襲ってきたりもする。
この映画はそのどれかに当てはまるというわけでなかった。
身体を椅子に縛り付けられて、目をクリップでカッと開かれたまま瞬きすら許されず、目の前で一ページずつアルバムを捲られていく。
これはもちろん悪い意味ではない。
それほどまでに鮮烈で、眩しすぎたのだ。
あれが金曜ロードショーなら、僕はテレビの電源を落としたり、録画していたなら早送りしてしまっていた。
あの空間だから、逃げられないあの場所だから、僕は僕と向き合えたのだ。
映画を観ながら僕は、自分をどの登場人物に自己投影しようかと考えていた。
しかし結局終わってみれば、僕は誰でもなかったのだ。
自分のことに置き換えて考えて欲しい。
あそこまで明確に個性付けされたキャラクター、つまり友人が周りに集まっていただろうか?
たしかに性格は違うけれど、でも何かが同じような人が僕の周りには多かった。
では何故、映画の中で彼らはああして集い、戯れ、近づいては遠のく関係性を十年間保ち続けたのだろう。
それは当然、あの映画がフィクションだからだ。
舞台はどこかの地方都市で(作中では湘南という地名が出てきてはいたが)、東京やアメリカという聞いたことのある地名こそ出てくるものの、彼らの着ている制服は台湾を思わせるものだった。
アレは架空の日本で繰り広げられた話だったのだ。
そうして明確に線引きがなされた上で話は進行していった。
ではこの映画は感情移入の余地の無い、駄作だったのだろうか?
僕はこれをはっきりと否定したい。
駄作だったのなら、僕はきっと鑑賞後にここまで胸がズキズキとは痛まなかった。
駄作なら、僕はあの場で大声で叫びたくならなかった。
僕らにはあそこまでの青春は無かったのかもしれない。
でも過ごしたのだ。
入学式も、文化祭も、体育祭も、修学旅行も、卒業式も。
たしかに存在した僕らのかけがえのなかった時間が、想い出が、蓋をしていた心をこじ開けられて覗かれたから、僕はあそこまで感動したのだと思う。
作中で、主人公の水島浩介(山田裕貴)は何者でもない自分を常にコンプレックスに感じている。
ただ僕は、彼こそがあの七人の中で最も特別だったと思った。
それは他ならない早瀬真愛(齋藤飛鳥)との関係性に現れていた。
登場する七人の中で(クラスや学年、学校にまで規模を広げたらその数は更に増えるだろうが)早瀬に憧れた人が何人もいた。
でも彼らには届かなかったものを、浩介はときに柵を飛び越え、ときに遠回りもしながら最後まで手を伸ばし続けた。
真愛や友人達との関係が千変万化する中で浩介は自分を見つめ、やはり苦しむ。
僕には彼こそが僕から最も遠い存在に感じた。
僕は自分が何者でもないことを知っていながらも、その答えを未来に先延ばしにしていたからだ。
この作品で僕が最も憧れたのは、眩しい青春でもなければ、早瀬真愛でもなかった。
水島浩介が持つ、瑞々しくて痛々しい感性だったのだ。
この作品をご覧になった方々には周知の事実であろうが、この作品には様々なIFが散りばめられていた。
あの時こうしていれば、あの時ああしなかったら。
そんな後悔のようなものが大半だったに違いない。
このIF(作中ではパラレルワールドと呼ばれていた)については、作品の終盤にて主人公の水島浩介の口からも語られる。
僕はアレこそが浩介の幼稚さ、女々しさの極致に感じた。
僕らは知っているはずなのだ。
過去のIFに現在の僕らが言及したって、僕らには未来しか残されていない。
それでも彼はそのIFに縋りたかった、もしくはそう思うことで自分をなんとか保とうとしたのかもしれない。
そんなどこまでも幼稚で、等身大の自分しか持ち合わせていない彼は、僕の心を強く揺さぶったのだった。
僕は「あの頃、君を追いかけた」とは、水島浩介の回想記のように感じた。
それは所々で彼自身がナレーションを務めたからではない。
思い返してほしい。
彼を含めた友人は計七人、その中で彼と真愛を除くと五人。
その五人との想い出は、強烈なインパクトのある部分がピックアップされていたのに対して、真愛との想い出はどうだったか?
日常で取り交わされる、限りなく意味を持たないシーンが多かっただろう。
鑑賞後に僕は、それは当然のことだったのだと悟った。
大切な人(友人も大切だがそうではなく、意中の人)と過ごす時間に、どうでもいい時間なんてない。
全てがかけがえのない、全てが意味のあるシーンでしかなかったはずだ(少なくとも僕には心当たりがいくつもある)。
それに彼が直接関与していない場面は、非常に簡潔に淡々と描写されていたのも、それを決定づけるものだった。
僕の知人がこの映画を観て「この映画が人生で一番の映画だ」と語ってくれた。
ただ僕はそれに疑問を呈したい。
僕はこの映画をNo. 1にする気などさらさらない。
特別賞だ。
僕にとってこの映画は、その時の気分や感情に左右されることのない特別なものだったのだ。
そしてここまで書き進めてこんなことを言うのも変な話だが、僕は皆さんにこの映画を勧めることに対して、大きな抵抗がある。
自分の中にだけ留めておきたい……と言うと大変烏滸がましいが。
それに、この映画を観ることは否が応でも自分との対話を余儀なくされる。
それは僕にとって、決して楽なことではなかった。
だからこそ人には軽々しく勧めることが憚られるのだ。
ただそれに矛盾する気待ちも薄らと芽生えた。
一人でも多くの人に、この心地いいズキズキを感じてほしい。
エンドロール後照明が点灯してから僕が席を立つまでの数十秒、僕はこんなことを考えた。
お祭り、テーマパーク、そして映画館。
そんな特別な場所のシンボルの一つを担うポップコーン。
僕らは劇場に足を一歩踏み入れたとき、あの甘いものに目がなかった幼少期を思い出させる、芳ばしくてどこまでも甘ったるいキャラメルポップコーンの匂いに釣られる。
そして買ってしまった人が何人もいることを知っている。
席に着き、映画が始まってからも、ポップコーンを頬張ることをやめられない。
でもいつか、その甘さに限界を感じて残してしまう。
でも食べきった人は皆口を揃えて言うことだろう。
「もったいない。後半になると、その甘ったるさの奥にある苦味こそが、本当に美味しいことを知るのに」
青春もその香りだけは甘い。
その甘さに落ち着かず、ずっと食べ進めていて僕は良かった。
その本当の美味しさに気がつくまで、僕にはもう少しだけ時間が必要だったのだ。